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カテゴリー「政治経済社会」の記事一覧
- 2025.07.15 [PR]
- 2013.02.03 毒まんじゅうを喰らった人々
- 2013.01.21 温度差はやむを得ないけれど
- 2013.01.18 反戦歌はカッコ悪いか
- 2013.01.14 マスコミ報道に違和感が
- 2013.01.12 アベノミクスの光と影
- 2012.12.30 一抹の不安をおぼえる
- 2012.12.17 長いものにはまかれろ
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人の器の大きさは「人をいかに責めるのではなく、いかに許すか」とのことが、これが言う簡単、成すは難し。とくに私がイラだつのは、原子力ムラの毒まんじゅうを喰らって私腹をタップリ肥やしながら、いまなお平然とTVに出つづけている方々。勝間和代氏や星野仙一氏、草野仁氏、玉木宏、北村晴男氏、薬丸裕英氏、岡江久美子氏、渡瀬恒彦氏…などなど。一昨年3月11日の福島第一原発の事故以前、いかに原発が安全でクリーンであるかを訴えるCMに出ていた有名人は数知れず。なかにはあきらかに原発が何たるやもわからずに、たんにカネのためだけに出ていられたような顔もあり、まぁその方たちは仕方ないとしても、学者や知識人たちの場合はそうはいかない。信憑性という意味でも社会的な影響は大きいからね。青木理氏によれば、こういう知識人が原発推進の原稿を書けば、その稿料はなんと1本500万円だとか。驚きである。そんな背景を考えれば、原発事故後の対談番組で勝間和代氏が「放射性物質が危険だという考えがおかしい」「小児に甲状腺がんがでる程度」「津波の死者に比べて死者が出ていない」などと暴言ともとれる発言を平然としていたのもうなずけないわけではない。彼女のように“毒”にどっぷり浸かりきった人物が、いまだ社会的に抹殺されることなくマスコミに出つづけていること自体、やはりマスコミも含めた日本中の大組織の多くが原子力ムラの傘下もしくはその影響下にあることを示唆するものであり、私としては恐怖を感じる。かつて「水蒸気爆発など起きるわけないし、プルトニウムは飲んでも平気」と言っていた御用学者の東大の大橋正忠教授などは、もう論外。表舞台からは姿を消したけれど、いまなお原子力ムラの利権で美味しいメシを喰ってるんだろうな…と思うと、器の小さい私はやはり腹がたつ。人が過ちを犯すのはやむを得ぬこと。しかし、過ちは正していかねば新しい道は開かれない。これは「いかに許すか」の範疇を超えていると私は思うが、いかがなものであろう。
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誰もが同じと思うが、私も戦争がキライである。にもかかわらず、世界には情勢不安定な国がまだ多々ある。今回のアルジェリアの人質拘束事件では尊い命が多数失われているので、軽卒ことは申し上げにくいが、アルジェリア政府のとった強行攻撃を私たち日本人が批難することはできない。国が変われば事情もまた違う。私たち日本人が考える人命最優先の倫理は通用しない。ニュースを見ていると、ニュースを発信する側の東京在住の方々と我々地方に住む者では捉え方がずいぶん違うなと感じることがしばしばある。同じ国内でも温度差があるのだから、外国となるとその差はなおさら。二度と人質事件を起こさぬよう、人質もろともあっさりと抹殺してしまうロシアのような考え方だってある。人質をとっても何の意味もないとすれば、人質事件の抑止になり、次の人質事件を未然に防いでいる…とも言えないわけではない。しかし、明らかに人命をないがしろにするこのやり方は、私たち日本人からみれば、とても承服できるものではない。そう思うが、いかんともし難いこの現実に、私たちは何の術すら持たない空虚感。日本政府は「人質の救出に各省庁をあげて全力を尽くす」とコメントを出したが、語られた具体策はひとつもなし。ならば他国の政府ように「過酷なニュースも覚悟せなばならない」と、素直な論評をしてくれたほうがまだマシ。何もできないのに「全力を尽くす」なんて儀礼的な言葉を並べられると、余計にイラだつ。いま願うのは、ひとりでも多くの方が無事であること。ただそれだけである。
アフリカ北部のアルジェリアで人質拘束事件が起きてしまった。アルジェリア軍が攻撃を開始したとか。情報も錯綜しており、人質の安否がとても気になるところ。ホントに平和と言えるかどうかは疑問だが、とにもかくにも戦争のない日本に住んでいると、この手の紛争事件が縁遠いことのようにも思えるが、世界では現実に戦争はいまなお続いている。人が人の命を奪うことに、たとえどんな大義名分をつけようとも正義などあるハズがなく、とても心が痛む。ところで、私が若い頃はちょうどベトナム戦争の真っ最中で、フォークソングは反戦歌の代名詞みたいな存在であったように思う。ジョーンバエズを筆頭に、PPMやピートシーガー、ボブディラン、ブラザーズフォーなどなど、ときのフォークソングシンガーたちはこぞって反戦歌を歌い、聴く私たちもそれに共鳴していた。ところが、ベトナム戦争の終結以降パタッと反戦歌は影を潜めた。けっして世界から戦争がすべてなくなったわけでもないのに。かく言う私も、いまではほとんど反戦歌を歌わない。誰も歌わないので場違いでカッコ悪い気がするのと、歌うだけの意思表示はなにか偽善的な気がするのが、その理由。でも、こうして世界の悲惨な現実を目の当たりにすると、やはり反戦歌は歌い継がれていってもよいのではないかとあらためて思う。日本の演歌がもともと演説歌であったように、歌にはメッセージを届ける力がある。だから私は再び反戦歌も歌い始めようと思う。私ひとりが歌ったからといって、それが何の力になるわけでもないことはわかっているけれど…なぜなら、私は戦争が大キライ。戦争のない世界であってほしいと、そう本気で思っているから。
先般の大津のイジメ、今般の大阪の体罰。生徒を自殺に追い込んでしまった社会背景に問題がないとは言わない。が、マスコミの取り上げ方の異常さには違和感を感じる。イジメも体罰も昔からあった話。それをさぞ大事件のごとく大々的に扱い、正義面した論説者たちが「我こそが正しい」と言わんばかりに加害者である生徒や教諭、教育委員会らを批難する。たとえば今回の大阪の体罰に関して、パーフェクトリバティー教団の某元プロ野球投手が「体罰に対して愛情を感じたことはいちどもなかった」と語っていたが、それは彼個人に限った話で、世の中の体罰がすべてそうというわけではない。実際、私が育った時代は体罰はアタリマエであったが、ちゃんと愛はあった。若干20歳で、学生気分の抜けぬまま会社に入社した私は、しょっちゅう先輩社員から叱られて、ときに殴られることもあったが、そういう先輩こそ飲みに連れていってくれたり、いっしょに遊んでくれたり…とても可愛がってくれた。のちに私にも後輩ができ先輩社員となったとき、人を叱るということがいかに精神的に重いことであるか…を知った。某元プロ野球投手はさらに「体罰を受けていた頃はごく普通の選手だった」とも語っているが、たまたま花開いたのが体罰を受けなくなった高校時代というだけで、「もしかしたらスパルタがその成長の礎をなっていたかもしれない」ということに気づくべきだろう。かと言って、生徒を自殺にまで追い込んだスパルタ教師を、私は擁護するつもりはさらさらない。昔から「飴と鞭」と言われるように、体罰を与えるならば、その2倍も3倍もの愛情を注ぎ、生徒との心の交流をしっかりと計るべきで、それを欠いたのは教師として人として失格と言わざるを得ない。ただ、とてもイラだつのは、現場にまったく即していない論説者たちが、いい子ぶって身勝手な批判をし、この悲しいニュースを飯のネタにしていることである。ならば、見なきゃいいって?…そりゃま、ごもっとも。
最近、新聞をにぎわしている記事のひとつにアベノミクスという言葉がある。これは、いわゆる米国のレーガン大統領が行なった経済政策レーガノミクスになぞらえて、安倍政権の経済政策に対してつけられた造語。こんな横文字にしちゃうと、なんかすっごく素晴らしくカッコ良いものみたいに感じちゃうから不思議だ。安倍政権の誕生とアベノミクスの発表以降、確かに株価は上がり、円相場は円安に動いているけれど、だからと言って我々国民は諸手をあげて喜んではいられない。もちろん円安となることのメリットも大きいけれど、当然デメリットもある。輸入コストが上がり、企業は原材料費抑制のために賃金削減に走らざるを得なくなるかもしれない。金融緩和で地価が上がれば工場や事務所の経費も上がるから、その傾向はなお強くなるかもしれない。すなわち、金持ちはなお裕福になり、私たち貧乏人はなお生活が苦しくなる…という最悪のパターンさえ懸念される。私は経済のことは明るくないので明確な予測は立てられないけれど、ただひとつ、これだけは言える。アベノミクスは公共事業により建設業界にカネをバラまく、いわゆる国家社会主義。きたる参議院選挙のための選挙対策としては間違いなく有効だろうが、結果として財政赤字を増やすことに尽きてしまう可能性も大。国民生活をなおいっそう悪化させることにもなりかねない。イメージや雰囲気だけにだまされず、実際に経済にどう作用するのか注視していかねば。それにしても誰が名づけたか、アベノミクス。確かにネーミングだけは素晴らしい。私のフトコロ具合に関する経済対策は、ただただひたすら節約のヒサノミクスしか手がないけれど。
今回の衆議院総選挙では自民党が圧勝したわけだが、私にはひとつの疑問が…。人が1億人いれば1億人の違った考えがあるのは当然のこと。ましてや政党ともなれば、自分の思いと100%同じアジェンダを持つ政党なんて絶対あり得ない。で、やむなく自分の考えにもっとも近い政党を選ぶのが選挙。確かに自民党は選挙で大勝したけれど、自民党自身も認めているように、それは民主党や第三極の自滅によるもの。自民党に投票した方々だって、自民党の政策をすべて支持したわけではなかろう。首相に返り咲いた安倍晋太郎氏のご長男は、ここ数日のうちに、民主党政権が掲げていた公務員削減や原発ゼロを踏襲しない考えを打ち出し、加えて新規原発建設の意向である旨も示した。自身も自他ともに認める超タカ派であるがゆえに、核兵器の必需品であるプルトニウムを生み出す原発をやめることなど絶対ないことは国民の誰もがわかっていたことではあるが、だが、それを国民が望んでいるかどうかは別である。行財政改革の一環である公務員削減の撤回もしかり。とどのつまり、これは政権を失った当時の自民党とまるで同じ。いかにもKY首相の異名をとった彼らしいと言ってしまえばそれまでだが、まったく世論に目が向いていない。政権の座には返り咲いたが、この3年の間に自民党が変わったことと言えば、古株議員がすこし減って新人議員が増えたことぐらい。失望感の到来は、民主党が政権を獲ったときよりも、はるかに早い。私たちは、いったい何を間違えてしまったのだろう。

選挙が終わり、ようやく政治問題も自由に語れるようになった。そもそも公職選挙法はあまりにグレーな部分が多過ぎで、担当する選挙管理委員会だって判断に迷う事柄だらけ。施行された昭和25年と現代とでは社会環境がおおきく異なる。とくに著しい違いは、なんといってもネットであろう。一般論からすればネットでの情報もOKとすべきだろうけど、それだとネットに疎い方が比較的多い高齢者の支持の厚い政党が不利ということになる。どことは言わないけれど。で、選挙結果は皆さんご承知の通り民主党の惨敗、自民党の圧勝。今回の選挙で注目を浴びた第三極は烏合の集団と化して、思ったほど票を獲得できず。とくにその筆頭であった維新の会は、まったく政策の異なる石原新党との野合により肝心の政策に一貫性を欠いてしまって自滅。自民党に失望し民主党に絶望した国民たちの声の受け皿とはなり得なかった。結果、とどのつまり「長いものにはまかれろ」的な発想で自民党の圧勝につながったものと私は拝察するが…。さて、ここで私にひとつの疑問が。これは多くの国民が、消費税アップと原発推進と官僚主導政治を認めたということなのだろうか。ホントにそれが真意なのだろうか。なにか腑に落ちないのだが…。