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けっして仕事に余裕ができたわけじゃないけど、ストレス発散も兼ねて今日は新譜にチャレンジ。Youtubeで歌詞やコードを拾い採譜して…。採譜ったって、世間一般で言うようなそんなにキチッとしたものじゃなくて、自分で弾き語れるように、歌詞を小節ごとで区切り、これにコード譜とアレンジの覚えを簡単に書き加えただけのもの。耳の良い方、ギターの上手い方ならば、おそらくチョチョイノチョイで仕上げられる程度のものだが、私の場合は何度も何度も書き直し、そしてYoutubeを再び聴き直して、そしてまた書き直す。そんなことを繰り返し、ようやく1枚が完成したと思ったら、なんと半日も要していた。さっそく弾いてみたら、アレンジを超イージーなものにしたこともあって、10分も練習せぬ間に弾けてしまった。もっと難易度の高いものに作り変えてもいいけど、そしたらまた半日以上時間を要しそうだし、とりあえず曲として成立しているから、ま、良しとするか。それよりも、何度も歌い込んで曲としての完成度を高めることのほうが重要だ。それにしても、歌ってみたら思いのほか短い。もともと弾き語りではなくバンド向きの楽曲で、歌の部分が少ないのが原因。そのことに採譜を終えてから気づいたけれど、この半日の労力を無にする気にもなれず…。延々半日かかってようやく完成した曲の長さは、たったの1分半。もし私がギターの達人ならば凝りに凝った間奏などを加えてカッコ良く仕上げるところだが、そんなテクがあるわけでもなく、ここはいっちょカズーのお出ましか。楽譜を1枚仕上げたらすぐに仕事に戻るつもりだったけど、またあらたな課題を作ってしまった。さて困ったぞ。
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広告つきのパンツが無料で届くというおいしい話の「フリパン」に登録してから半年近く経つが、届いたパンツは1枚もなし。これじゃフリパンならぬノーパンだ。巷でささやかれているように「個人情報集めの詐欺サイトではないか」という疑念も捨てきれない。しかし、届かぬフリパンをパンツのゴムを長〜くして待っていてもしかたないので、先般クライアントへ出かけた際にダイソーに立ち寄りボクサーパンツを購入してきた。店には100円と200円の2種類のパンツがあり迷ったが、とりあえずってことで、100円のを3枚購入。で、さっそく履いてみると、なんとじつにフィット感が良く、とても100円の品とは思えないほど。他社製品の500円程度のものよりもはるかに履き心地が良い。ただひとつの難点は、男性用なのに前空きがついていないこと。トイレに行くたびに、ちょいと不便を感じる。おそらく200円の物にはついているものと推察する。だから次回は200円のパンツを買おうと思う。ちなみに私は、どこかの節操のないタレントたちとは違い、ダイソーから謝礼を受け取ってパンツを褒め讃えているわけじゃない。純粋に「良い」と思っているから書いているわけで、もし見たいと言うかた(とくに若い独身女性歓迎)がいるなら、ズボンを脱いで自慢したいところだけど…、そんな人いるわけないか。ははは。
フリパンの公式サイト
フリパンの公式サイト
我が菊川市は、もっか選挙戦まっただ中。こんなとき口にしちゃいけない言葉は「落ちる」とか「破れる」など。でもこの禁句ってのは、意識すればするほど、かえってなぜかフイと出てしまうから厄介だ。原稿が机から床へヒラッと舞ったとき。パソコンのアプリが突然終了しちゃったとき。孫が障子をプスッとしたとき。ふと言ってはいけない言葉が…。じつは遠い昔、私は禁句を発してしまった苦い経験がある。それは26年前。人生で初めて仲人を請け負ったときのこと。いまでは仲人なんてものはナシで結婚するのがごく普通になったが、当時は違った。で、その失敗の場は結納式。事前に新郎側とは入念に打ち合わせをして式に臨んだのだが…。いざ式が始まると、なんと、新婦側が予定していたダンドリとは異なり、右往左往で途中からはもうテンパリっぱなし。なんとかようやく式を終えて宴席に移ったとき、安堵感から一瞬にして気が緩み、新郎・新婦の父上と酒を飲み交わしながらつい出てしまったのだ、禁句が。「いやぁ式の進行を“失敗”しちゃってすみません」って。“失敗”は絶対言っちゃいけない言葉。前夜、一生懸命読んだ禁句集に、切れる、離れる、別れる…などとともにちゃんと書かれていたのに。自分の失言に気づいたとたん、私ゃもう真っ白。もうどうにでもなれ〜ぐらいの気持ちで、飲みに飲んじゃって、新婦のお宅を後にするころには、もうまともに歩けぬほどだった。後日、この失言のことを新郎・新婦に謝ったら、なんとご両家とも失言にはまったく気づいてなかったとのことで、「あ、そうだったの。すっごく宴席が盛り上がってとても良かったよ」とのこと。結局、禁句で振り回されたのは私ひとりだけ。そのときは無難にことを終えたけど、なかにはとても気にされる方もいらっしゃるから、やはり禁句は避けるに越したことはない。あと4日。もしできるなら、いっそ口にチャックでもつけておきたい。そして27日の夜にチャックを開き、こころから「おめでとうございます」を言えたら、どんなに良いだろう。
誰もが同じと思うが、私も戦争がキライである。にもかかわらず、世界には情勢不安定な国がまだ多々ある。今回のアルジェリアの人質拘束事件では尊い命が多数失われているので、軽卒ことは申し上げにくいが、アルジェリア政府のとった強行攻撃を私たち日本人が批難することはできない。国が変われば事情もまた違う。私たち日本人が考える人命最優先の倫理は通用しない。ニュースを見ていると、ニュースを発信する側の東京在住の方々と我々地方に住む者では捉え方がずいぶん違うなと感じることがしばしばある。同じ国内でも温度差があるのだから、外国となるとその差はなおさら。二度と人質事件を起こさぬよう、人質もろともあっさりと抹殺してしまうロシアのような考え方だってある。人質をとっても何の意味もないとすれば、人質事件の抑止になり、次の人質事件を未然に防いでいる…とも言えないわけではない。しかし、明らかに人命をないがしろにするこのやり方は、私たち日本人からみれば、とても承服できるものではない。そう思うが、いかんともし難いこの現実に、私たちは何の術すら持たない空虚感。日本政府は「人質の救出に各省庁をあげて全力を尽くす」とコメントを出したが、語られた具体策はひとつもなし。ならば他国の政府ように「過酷なニュースも覚悟せなばならない」と、素直な論評をしてくれたほうがまだマシ。何もできないのに「全力を尽くす」なんて儀礼的な言葉を並べられると、余計にイラだつ。いま願うのは、ひとりでも多くの方が無事であること。ただそれだけである。
アフリカ北部のアルジェリアで人質拘束事件が起きてしまった。アルジェリア軍が攻撃を開始したとか。情報も錯綜しており、人質の安否がとても気になるところ。ホントに平和と言えるかどうかは疑問だが、とにもかくにも戦争のない日本に住んでいると、この手の紛争事件が縁遠いことのようにも思えるが、世界では現実に戦争はいまなお続いている。人が人の命を奪うことに、たとえどんな大義名分をつけようとも正義などあるハズがなく、とても心が痛む。ところで、私が若い頃はちょうどベトナム戦争の真っ最中で、フォークソングは反戦歌の代名詞みたいな存在であったように思う。ジョーンバエズを筆頭に、PPMやピートシーガー、ボブディラン、ブラザーズフォーなどなど、ときのフォークソングシンガーたちはこぞって反戦歌を歌い、聴く私たちもそれに共鳴していた。ところが、ベトナム戦争の終結以降パタッと反戦歌は影を潜めた。けっして世界から戦争がすべてなくなったわけでもないのに。かく言う私も、いまではほとんど反戦歌を歌わない。誰も歌わないので場違いでカッコ悪い気がするのと、歌うだけの意思表示はなにか偽善的な気がするのが、その理由。でも、こうして世界の悲惨な現実を目の当たりにすると、やはり反戦歌は歌い継がれていってもよいのではないかとあらためて思う。日本の演歌がもともと演説歌であったように、歌にはメッセージを届ける力がある。だから私は再び反戦歌も歌い始めようと思う。私ひとりが歌ったからといって、それが何の力になるわけでもないことはわかっているけれど…なぜなら、私は戦争が大キライ。戦争のない世界であってほしいと、そう本気で思っているから。
先般の大津のイジメ、今般の大阪の体罰。生徒を自殺に追い込んでしまった社会背景に問題がないとは言わない。が、マスコミの取り上げ方の異常さには違和感を感じる。イジメも体罰も昔からあった話。それをさぞ大事件のごとく大々的に扱い、正義面した論説者たちが「我こそが正しい」と言わんばかりに加害者である生徒や教諭、教育委員会らを批難する。たとえば今回の大阪の体罰に関して、パーフェクトリバティー教団の某元プロ野球投手が「体罰に対して愛情を感じたことはいちどもなかった」と語っていたが、それは彼個人に限った話で、世の中の体罰がすべてそうというわけではない。実際、私が育った時代は体罰はアタリマエであったが、ちゃんと愛はあった。若干20歳で、学生気分の抜けぬまま会社に入社した私は、しょっちゅう先輩社員から叱られて、ときに殴られることもあったが、そういう先輩こそ飲みに連れていってくれたり、いっしょに遊んでくれたり…とても可愛がってくれた。のちに私にも後輩ができ先輩社員となったとき、人を叱るということがいかに精神的に重いことであるか…を知った。某元プロ野球投手はさらに「体罰を受けていた頃はごく普通の選手だった」とも語っているが、たまたま花開いたのが体罰を受けなくなった高校時代というだけで、「もしかしたらスパルタがその成長の礎をなっていたかもしれない」ということに気づくべきだろう。かと言って、生徒を自殺にまで追い込んだスパルタ教師を、私は擁護するつもりはさらさらない。昔から「飴と鞭」と言われるように、体罰を与えるならば、その2倍も3倍もの愛情を注ぎ、生徒との心の交流をしっかりと計るべきで、それを欠いたのは教師として人として失格と言わざるを得ない。ただ、とてもイラだつのは、現場にまったく即していない論説者たちが、いい子ぶって身勝手な批判をし、この悲しいニュースを飯のネタにしていることである。ならば、見なきゃいいって?…そりゃま、ごもっとも。
私が好きな曲のひとつに高田渡氏の「アイスクリーム」がある。ところで、歌とはまったく関係ないが、このアイスクリーム。正しく言うと乳固形分15.0%以上 (うち乳脂肪が8.0%以上) のものがアイスクリームで、乳固形分10.0%以上(うち乳脂肪が3.0%以上)のものはアイスミルク、乳固形分3.0%以上のものはラクトアイスと分類される。すなわち、乳固形分の含有率が高いものほど高級で、たとえばハーゲンダッツなどがこれに当たる。もちろん私もアイスクリームが大好きであるが、金額的になかなか手が出ない。で、ちょいとランクを下げてアイスミルクを買うことが多いのだが…。だけど、そんな行動が家族に大きな勘違いをさせていた。とある日。買い物に出かけた家内が、家族みんなにハーゲンダッツを買ってきたが、私の分だけなぜかハーゲンダッツではなくアイスミルク。「え?!なんで?」と問うと、「だってお父さんはアイスミルクが好きじゃん」って。そんな誤解は他にもある。私はコンビニへ出かけたときに、しばしば98円のジュースを買ってくるのだが、その理由はたんに安いから。これまた先述のアイスミルクと同様に、「はい、お父さんはコレね」と言って当然のごとく渡される。自分の財布で買うのでなければもっと違うのが欲しいのに…。どうやら私は、家族に安物志向と思われているらしい。ま、それでも、忘れず私の分も買ってきてもらえるだけマシか。存在まで忘れられたら、きっとかなりショックだろうけど。