E-A-D-G-B-E
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人間ってのは、イヤな思い出は消し去る能力を持っているのだという。もしその能力がなく、悲しみや怒りをいつまでも持ち続けていると、精神が異常をきたして死に至るという。泣くという行為には、精神状態を早く安定化させる効果があるのだとか。だが、事によっては忘れ去ってはならないこともあるのではないだろうか。たとえば福島第一原発事故。今日あらたに地下水から、国の基準の8倍の1リットルあたり50万ベクレルのトリチウムと、30倍の1リットルあたり1000ベクレルのストロンチウムが検出されたらしいが、ほとんどのメディアはこれをスルー。もしこれが福島第一原発事故前であれば、すべてのメディアが特番を組むほどの深刻なニュースであるにもかかわらず。もはや放射能汚染の問題は、悲しいな、国民の関心事ではなくなってしまったかのようである。かたや原子力規制委員会は今日、原発再稼働への第一歩となる原発の新しい規制基準を正式決定した。原子力ムラとともに歩む自民党政権だから、これもやむを得ぬことなのかもしれないが、事故後かつて多くの国民が求めた原発ゼロの声はいったいどこへ消えてしまったのか。先に述べたように忘却も確かに大切ではあるが、やはり忘れてはならないことだってあるはず。“No more Fukushima”を100%実現できる手段は、脱原発しかない。日本は唯一の被爆国であり、数少ない原発事故の体験国。私たち日本人こそが脱核のオピニオンとなるべきと私は思うのだが…。
福島第一原発の地下水から高濃度ストロンチウム検出
新規制基準を決定 電力各社、再稼働申請へ
福島第一原発の地下水から高濃度ストロンチウム検出
新規制基準を決定 電力各社、再稼働申請へ
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部屋の中にいても熱中症になってしまいそうな昨日、今日。そういや昔は熱中症なんてものは誰も知らず、ずいぶん危険な思いをしたものだなぁ…と、いまさらながらに思う。たとえば部活では「練習中に水分を取ると疲れが出る」という理由で水を飲むことは禁止されていたし、それでもし具合が悪くなれば「根性が足りない」と教官や先輩から厳しいシゴキを受けたものである。私が経験した、いま思えば明らかに熱中症と思われる事例はふたつ。まず最初は高専時代。その頃の私の“足”は、家庭教師とパチンコ店の店員とゴルフ場のキャディのバイトで買った中古のYAMAHA HS-1。空冷2サイクル2気筒の90ccバイク。90ccでツインエンジンなんて、この兄弟車のHS-90を除いて後にも先にも、おそらく他にないのではなかろうか。まだ若く走り屋だった私は、友人の4サイクル単気筒のHONDA SL90とよく走り比べをしたが、立ち上がりの加速はHS-1が圧倒的に上。街乗りにはまさに最高のバイクであった。余談が長くなってしまったが、ある暑い日に、このHS-1が途中でエンコしてしまい学生寮まで押して歩くことに。どのくらい歩いた頃か、突然目に映る景色がすべて黄色に変わり、意識が遠のきそのままバイクとともに倒れ込んでしまった。炎天下の中で。あいにく場所は農道で、人通りはほとんどない。再び意識を取り戻したのは、すっかり日が西に傾いてもうじき夕闇が訪れようとしている頃だった。おそらく気温が下がったことで、体調が回復したのであろう。見るものすべてが真っ黄色の世界を、私はそのとき初めて体験した。次は15年ほど前。PTAの奉仕活動で古新聞回収をしていたとき。私はトラックの荷台に乗り、集められた古新聞を受け取って載せる作業をしていたのだが、途中でだんだんクラクラし始めた。もうじきすべて積み終える頃には半ば意識もうろう。もし熱中症というもの知っていれば、そこで作業をやめて誰かに事情を告げて休憩したのであろうが、当時はそんな知識もなく「なんて私は体力がないんだ」「根性であとひとふんばり」と最後まで。そして、ようやく作業が終わった頃にはすでにフラフラ。言葉を発する元気さえなく、トラックから降りて一目散に木陰へ行って横たわった。どれくらい横になっていたのか、気がついたときにはトラックも一緒に作業をしていたPTAの方々の姿もすでになくなっていた。その後、水道へ行き水をガブ飲み。いま思えばこれも軽度の熱中症だったのだろうが、そんな予備知識はなくとも、涼しい木陰で休んだり、水を飲んだり…と、人は自然に自衛の手段を取るものだな、あらてめて思う。ただし、これも程度問題。若かった昔と違い、回復力だっていまではきっと劣っているに違いない。無理をせず、マメな水分補給に心がけなくっちゃね。しかし、ホント暑いなぁ。マジ暑い。いったいどうなっているんだ、今年の梅雨は。
6月の第3日曜日、つまり昨日は「父の日」だったんだね。みんなのSNSを見て初めて知った。プレゼントした人、された人。おそらく一様に良い思い出となったことであろう。ところで我が家では「母の日」「父の日」の類いの儀式はいっさいない。もちろん、だからと言って家族の絆が稀薄というわけではけっしてない。私のボケと家内の天然ボケと、それに対する家族のさりげないツッコミで、毎日けっこう楽しくやっている。そもそも振り返ってみれば、37年前に私がサラリーマン生活から卒業したときから、ずっと生活面・経済面で迷惑をかけてきた私のわがまま人生に付き合ってきてくれたのだから、ま、言わば毎日が「父の日」みたいなもの。けっして皮肉ではなく、心の底からそう思っている。家庭における父親ってのはじつに微妙な存在で、動物学的に言うと、母親と子どもは真の家族であるが、父親は社会が築いた形式的な家族。かつて昔、戦争で亡くなっていく兵士たちが最後に叫んだ言葉は「おかあさん!」であり、ひとりとして「おとうさん」と呼ぶ者はいなかった…ということからも、それはよくわかる。でも、日々の生活のなかではたいして役に立たない父親も、精神的な支柱としての役割はおおきく、また父親である私たちまたそんな家族を心のよりどころにして生きている。ちょいと理屈っぽくなっちゃたけど、なにはともあれ親父は家族とともにあるのだよ…ってね。がんばれ、世界中の親父たち!そんなことを、あらためてふと思う「父の日」である。
投票締切の10分後には当確が発表されるという異例の早さで、今回の静岡県知事選は現職が再選を決めた。有力な対抗馬がいなかったので、当然の結果というか、やむを得ぬ結果というか…。唯一対抗馬と呼べそうな自民系無所属の候補者も、先般ブログにも書いた、あたかも迷惑電話に等しい一軒に4回も電話をかける電話作戦や、某宗教系団体の支援が裏目に出たのではないかと思う。今回の県知事選でも、その組織に属する知人から、彼らがF活動と呼ぶ投票の依頼を受けたが、「あ、その団体がバックにいるのか」ということを再認識して、私のように逆に投票を避ける者も少なからずいるのではないかと思う。もちろん選挙運動ってのはある程度必要だし、それ自体はけっして悪いことではない。だが、むやみやたらな運動は逆効果。もっと相手をちゃんと分析し緻密な戦略を立てなければ、せっかくの活動もマイナスに働く…あらためてそう思った今回の県知事選であった。
哲学や法学を学んだ者なら誰もが知っている2つの真理、“sein(ザイン)”と“sölen(ゾレン)”。わかりやすく言うと“不変の真理”「〜である」と“可変の真理”「〜であるべき」ってことだけど、これについて最近思うんだよね。論調ってこわい…って。前者のseinは、時代を超えて万国共通。だが後者のsölenは、国が違えば、そして時代が違えばホントさまざま。まずは国。たとえばトルコ。政府と反政府勢力が対立して大騒ぎになっているけれど、宗教的な思想もからんでどっちが正しいとも言えないし、どっちも正しいとも言える。どちら側の人にとっても、自らが主張する意見こそが正義なのだ。これと似ているのが、尖閣諸島や竹島の領土問題(公式には“領土問題は存在しない”ということになっているので、領土問題って言っちゃいけないのかも)。これも日本、中国、韓国それぞれに主張が異なるが、それぞれが自分の主張が正義と信じる背景には自国内の教育や論調によるところが大。だからまったく噛み合ない。だが、希望がまったくないわけではない。それはsölenの真理は時代とともに変わり得る…からだ。たとえばタバコ。私は愛煙家だから余計にそう感じるのかもしれないが、最近の“愛煙家叩き”はかなり辛辣。あたかも極悪人であるかのような、かなり強烈な意見のカキコが目立つ。私が言いたいのは、その内容のことではない。時代による変化である。かつて昔、喫煙者が50%を超えていた時代には禁煙・嫌煙なんて意見はほとんどなく、当然のものとして容認され、むしろ麻薬の抑制に繋がるとして推奨さえされていた。ところが時代が変わり、喫煙者が減り嫌煙権を主張する者が増えると、今度は一転。タバコは悪行と評価が変わった。要は、人は自分と同じ意見を持つ者が増えれば増えるほど「これこそが正義」と、より強く思うようになる…ということだ。正義ってのは常に不変ってわけではなく、世の論調によってコロコロ変わる。極論を言えば、たとえば「戦争すべき。反戦を唱える者は非国民」なんていう論調が世の大勢を占めれば、それが正義となる…ということだ。結論が最後になっちゃったけど、私が言いたいことは、つまりこういうこと。「自分が正しい」と信じていることも、一歩引いて相手の立場になって見てみると、意外な解決策がみつかるかも…って。でしょ。
復興庁の参事官のtwitterでの暴言がおおきなニュースになっている。でも、どうなんだろう。確かに語っている内容はグチが多く、公職にある者の発言としてはふさわしくないかもしれないが、SNSってもともとそういう性質のもの。公式の場で述べたわけでもなく、表現の自由の内の類いのものだと私は思う。ただ問題なのは、こういう意識の者を官僚として採用している組織そのもの。彼のようにSNSでグチらないまでも、同じような“やる気のなさ”で仕事にあたっている者も多いのではないか…と勘ぐらずにはいられない。そして、もうひとつ気になることは、こういう事案に対して匿名やハンドルネームでかなり辛辣な意見を書き込む者が多いこと。もちろん意見を述べることはおおいに結構だが、意見するのであればぜひ堂々と実名で願いたい。語るのは自由。だが、匿名とかハンドルネームとか、そういう見えない壁に守られて語るのは…ちょいと卑怯な行為ではなかろうか。
復興庁水野参事官のツイッター暴言問題について考える
復興庁水野参事官のツイッター暴言問題について考える
プロ野球ファンの長男とも最近よく話していた話題が「今年のボールはやけによく飛ぶね」ってこと。これは打者が飛ばない統一球に慣れたからか…とも思っていたが、真相はやはり違った。なんと日本野球機構が、今シーズンから“飛ぶボール”に変更しながら、その事実をファンはおろか12球団にも隠していたことが判明したのだ。隠していただけならまだしも、確か以前その疑惑を投げかけられたときに「変わっていない」とウソの回答までしていた記憶が。もちろん選手にしてみれば成績がすべて。違うボールであるにもかかわらず、昨年と同等の比較をされたのではたまったものではなかろう。私たちファンにしてみれば、ホームランや長打が増えることで、よりゲームが楽しくなる…っていうメリットもあるけれど。でも「騙された」という不信感はやはり拭い切れない。そもそも、統一球変更のことをなにゆえ隠す必要があったのか、その理由がサッパリわからない。わからないから、もしや球界に強大な力を持つ某大手マスコミ企業のボスの“鶴のひと声”で勝手に決めてしまったのではないか…などという余計な詮索までしてしまう。プロ野球は、経営側も選手もそしてファンも含めた、み〜んなのもの。スポーツの基本はフェアプレイのハズなのだが…。ほら、憂歌団も歌っている有名な曲があるでしょ、「嘘は罪」ってさ。
NPB、朝から対応に追われ「協議中」
NPBが情報を隠ぺい 統一球問題
NPB白状…統一球こっそり変えてた
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