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カテゴリー「ビジネス&ライフ」の記事一覧
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とある友人が、本日からブログを始めたそうな。で、その冒頭に「最後にその日あった良いことを必ずひとつ書く」ことを、彼女のブログの定めとすることが書かれていた。なるほど、それは良いアイデア。その日の最後に、その日起こった嬉しいことや良いことを思い出すのは、精神衛生上とても良いことである。元来ネガティブ思考というか、ややヘソ曲がりな私には、照れもあってブログに書くことはできないことだけど、「良かったことを思い出す」という行為だけは真似てみようか…と思う。う〜ん、今日の「良かったこと」はアレとコレかな。あ、アレも、コレも。思い返すと意外とたくさんあるものである。皆さんも、ぜひやられてみては、いかがかな。

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「男と女の驚くべき運転の違い」ってのがネット記事にあった。男は独り言が多い、女性をチラ見する。女はルームミラーを化粧鏡化する、キーを探す、犬を注目する。なるほど。確かに言えるかも。だが、私がふだん感じている男と女のクルマの運転の違いは、男は道を譲るが女は譲らない…ということ。右折車の後ろにクルマが連なっているとき、脇道から本線に合流しようとしたとき、譲ってくれるのは、ほぼ男性ドライバー。とくにトラック運転手(ダンプを除く)は譲ってくれる確率が高い。また、すれ違いのできない細い場所で道を譲ってくれるのも男性ドライバーが圧倒的に多く、逆に譲ってあげた場合でも、ちゃんとお礼をしていくのが男性ドライバーで、素知らぬ顔で通り過ぎていくのが女性ドライバー。それから、信号の先が渋滞しているにもかかわらず平気で交差点内に進入してきて、右折車が困っていても平然としていることが多いのが、女性ドライバー。もちろんこれは、すべての男性ドライバー、女性ドライバーに当てはまる話じゃなくて、比較的そういう方が多い…という話なんだけど。そんなことを昔、家内に話したら「たぶん女性は運転に余裕がないからだよ」と言っていた。確かにそうかもしれない。言われてみれば納得で、それ以来、女性ドライバーに対しては寛容になった。が、たまにいるマナーのない男性ドライバーに対しては、いまだにイラッと来る。私もまだまだ若いかな。すべてのドライバーに対して寛容になれるのには、まだまだ10年や20年かかりそうだけど、その頃にはきっと、他のドライバーから寛容にみていただかなくちゃならない歳になっている…。

男と女の驚くべき運転の違い

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科学誌ネイチャーに載せられた、とある若手女性研究者の研究論文が物議をかもしている。もし真実であれば世紀の大発見とも言える偉業なのだが、その論文が不正だとか、研究そのもの偽りだとか…。これに関し、さまざまなコメンテーターがいろんなことを言い、その多くが若手女性研究者に対して冷たい論評であるが、はたして真相はどうなんだろう。視聴者である私たちが、まず疑ってかからなければならないのは、そのコメンテーターたちの立ち位置。たとえば、原発推進派の先生方が、原発の安全性や有効性を説くことによって原子力ムラから莫大な報酬を得ていたことは誰もが知るところであるが、これに近いものがありそうだ。仮にこの論文もしくは研究が認められれば、名声とともに利権も若手女性研究者にゆだねられる可能性が高い。彼女が“作り方のコツ”を明かさない理由もここに。論文では概論だけを発表し詳細は公表しないことは研究者にとってはごくあたりまえのことらしいが、これまでもがヤリ玉に上げられているのは、裏に何か作為的な意図がありそう。そもそも、これが研究所という特別な世界ではなく一般社会であれば、社員のミスは会社の責任。社員ひとりに責任を押し付けるのではなく、責任はすべて会社が負い、社会的には個人を守るのが会社の役割であるはず。にもかかわらず理研の対応はまったく逆。あたかもトカゲのシッポ切りのように個人を切り捨て、たんに組織を守ろうとするばかりでなく、その手柄を我が物に…と考える考える者たちがほとんどなのだろう。すなわち一般の常識など通用しない特異な世界であることには間違いない。一連の報道を見ての私の感想は、こうである。渦中の若手女性研究者はきわめて真面目な研究者で、おそらく実験には成功している。ただ、組織と指導者に恵まれなかったために、科学の世界の構図や正しい論文の書き方にはいたって未熟で、稚拙なミスや勝手な判断による画像切り貼りなどが多々ある論文を発表してしまった。冒頭にも述べたように論文の内容そのものは世紀の大発見とも言える画期的な物であったが、肝心の論文が未熟であったため、名声と利権を欲する他の科学者たちから一斉に攻撃されるハメになってしまった…と。まぁ当たらずとも遠からず。そんなところではなかろうか。視点は180度変わるけれど、人間の人相ってのはやはり人柄を表す…と私は思っている。「人は見かけによらず」とも言うが、逆に言えば人相でなんとなくその人の人柄を判断している…ということだ。優しい人は目尻に小じわがあったり、気難しい人は口角が下がっていたり眉間にしわが寄ったり…その人の性格はいつしか顔の変化に結びつくものだなぁ…と人生を58年やってきて、そう思う。悪人はやはり悪人顔をしているし、誰とは言わないが、とくに政治家にはそんな人が多い気がするし。そういう観点で、渦中の若手女性研究員を見てみると、ややしも負けん気の強さは垣間みれるものの、けっして悪巧みのできるような人ではなく、むしろ真っ正直な人なんだろう…と推察する。いずれにせよ、今回のゴタゴタで、この偉大な発見が将来誰か第三者の手柄になったり、この有望な若手女性研究員の学者生命が絶たれたりすることのないようにして欲しいものと私は思うが…。

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今日は抜けるような青空の好天気。というわけで、急遽とある施設の撮影となった。通常、仕事の撮影はプロの商業カメラマンに委託するのだが、カメラマンを使う予算がないとき、カメラマンのスケジュール調整がつかないとき、私の撮影でもなんとか賄えそうなとき…などは私が撮影することも。今日の撮影は天気を見て今朝とつぜん決まったので、カメラマンを手配する余裕もなく必然的に私が撮ることに。午後イチバンの校正と夕方の静岡での打ち合わせの間に、ちょうど少しだけ時間があり、この間を使って撮影することにした。ところが、この撮影。クライアントの20名ほどの協力を必要とし、この撮影のためにわざわざ時間を割いていただかなくてはならない。好天の屋外というこの上ない好適の撮影条件なので、まず100%失敗はあり得ないのだが、万が一にも失敗は許されないので、とても緊張した。帰社後、急いで画像をチェックして、ちゃんと撮影されているか確認したことは言うまでもない。それにしても、ずいぶん楽になったものだと思う。カメラがデジカメになって。かつて昔フィルムで撮影した頃は、撮影後に現像屋さんに会社へ連絡してフィルムを取りに来ていただいて、その翌々日にポジが仕上がってきて、ようやく写真の状態を確認。それまでは、ちゃんと撮れていたかどうか不安でいっぱいだったし、現像の失敗も心配しなくちゃならなかった。余分な写り込みの消去や画像補正もフォトショップでチョチョイのチョイ。フィルムの時代と比べると雲泥の差である。仕事が楽になった分、というか、それ以上に制作料金も下げられているので、もちろん諸手を挙げて喜べる話ではないんだけど、日程の短縮やプレッシャーの軽減という点で、デジタル化の貢献度はじつに高い。これはほんの一例だけど、この他にもデジタル化によって仕事のやり方が変わったことは多々。でも、イチバンの違いは、人と人との有機的な繋がりだろうか。思い返せば、ひとつの仕事をこなすのにより多くの人の手を介した昔のほうが、社会のコミュニティがもっと豊かだったようのな気もする。

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本日到着予定の荷物が届かない。配送情報を確認すると、昨日の昼に受付はされているようだが、どうやらいまだに東京にあるもよう。おそらく週末の大雪の影響であろう。今回はたまたま日程にゆとりがあり、1日遅れても支障はない荷物だったので問題はないけれど、もしこれが日程厳守の物だったら…と考えると恐ろしい。いまごろパニックに陥っていたことは必至。というか、おそらく世の中には困っておられる方もたくさんいるのだろう。1.17。3.11。昨年の豪雨被害。そして今回の大雪。自然災害には人間の文明がいかに無力であるか、を、あらためて思い知らされる。自然災害はやむを得ないににしろ、人災である原発事故は人間の力で防ぐことができる。その答えはいたって簡単。そう。原発をやめればよいのだ。ところで、荷物。明日はちゃんと届いてくれるかなぁ。ちょいと心配。

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今日は某新施設のパンフレット撮影。金土の天気予報がすぐれていなかったので、今日に延ばしたんだけど大正解。快晴で、遠景には富士山もくっきり。そこまでは良かったが、いざ施設の全景写真を撮ろうとしたら、これが超たいへん。向かいの小山に登って撮ったんだけど、山道があるわけじゃなく、60°以上もあろうとかと思われる崖を木の蔓をつたってエンヤコラ。20歳のときに北八ヶ岳のいくつかの山を制覇したしたけれど、これほどキツイ勾配はさほどなかったように思う。登ったら登ったで、その後がまたたいへん。撮影ポイントまで移動するために、剛情な枝たちをかき分けかき分け。一歩踏み間違えれば崖下に転落…そんな恐怖と闘いながら。そう。じつは私は子供の頃から高所恐怖症で、高いところがとても苦手。幼い頃、近所のお寺の山に登って遊び、夕方になっていざ帰ろうと崖下を見た途端、急に恐ろしくなって降りれなくなった…という苦い経験が。そのときは勇気を振り絞ってなんとか降りたけれど、それ以降、高い場所が大嫌いになった。そして今日もまた。山を降りる段になって、そんな子供の頃の記憶が蘇り…とにかく下を見ないように心がけて必死の思いで降りたんだけど、じつは心の中では大泣きしていた。そんなこんなで第一関門はなんとか通過したんだけど、今度は、撮影に邪魔なウマを移動しているときに指に激痛が。そう。ウマの可動式の脚に右手の人差し指を思いっきり挟んじまった。これも泣きたいほど痛かったけれど、大のオトナが泣きべそをかくのもみっともないのでグッと我慢。幸先の悪い撮影のスタートであったが、その後は順調に撮影が進み、なんとかスケジュール通り日没までに撮影を終えることができた。ドキドキやズキズキなど恐怖や痛みを伴う撮影だったが、天気にも恵まれ、終わってみれば万事OK.。ちなみに右手の人差し指は、いまだに痛みが残っているものの、だいぶ和らいでギターを弾くのにもさほど支障はなさそう。う〜ん、はたして今日はついていたのか、いなかったのか。妙に興奮冷めやらぬ宵である。

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今日はいったいどれだけ多くの人が、ブログやSNSにバレンタインのことをカキコしているのであろう。そう、今日はバレンタインデー。だけど私が中高生の頃は、これは日本にはなかった風習。お菓子業界の戦略にまんまと国民がはまった結果である。最近では12月のクリスマスに加えて、2月のバレンタインデー、3月のホワイトデー、10月のハロウィンなど、キリスト教にちなんだ行事がたくさんポピュラーになった。もちろん、けっして国内にキリスト教徒が増えたというわけではない。あくまでも商業的なイベント。つまり江戸時代に平賀源内が発案した「土用の丑の日」と同じである。ま、それはそれで日本経済のためにも、人間社会のコミュニケーションのためにもなっているので、おおいに結構なんだけど、地の神様とか恵比寿講などといった日本古来の行事が次第に軽視され始めた感が。何が必要で、何が不必要なのかは、その時代に生きる人々が決めることなので、善し悪しは一概に言えないけれど、失われた文化を取り戻すことは難しい。新しい文化が生まれる一方で、失われて行く文化もあることを私たちは忘れてはならないだろう。…と、屁理屈的な能書きは今日はここまで。ことしもたくさんのチョコを、事務所の姐さんほか多くの方からいただいた。みんなみんなありがとう。家内と末娘からいただいた分は、うっかり撮影前にすでにお腹に納まってしまったので写真はなし。ごめん。

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PROFILE
HN:
久村孝治
年齢:
68
性別:
男性
誕生日:
1956/03/02
職業:
広告制作会社 代表取締役
趣味:
ギター、ラジコンヨット、仕事
自己紹介:
30歳にて広告代理店を退社し独立。以降、四半世紀余り広告制作会社を営む。モットーは、仕事も遊びも楽しくマジメに!
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